ジャズ喫茶が『街』生んだ!?・・・駅の物語・・・
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- 日時: 2003/03/05 14:08
- 情報元: 読売新聞
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- 参照: http://www.books-ruhe.co.jp/
- 秩父から切り出した木材を運んでいた甲武鉄道が、現在の中央線の前身だ。荻窪一境(現在の武蔵境)駅間に当時、駅はなく、一八九九年(明治三十二年)、吉祥寺村民の新駅設置促進運動によって吉祥寺駅が誕生した。
都民のベッドタウンとなり人口が増加。 それに伴い乗降客数も右肩上がりとなり、現在は一日約二十八万人が利用する。 大手デパートなどの商業施設や文化施設が整い、吉祥寺は若者たちの街となった。 吉祥寺を「町」から「街」へと変えた男と言われた野口伊織さんが、この世を去ってまもなく二年となる。 ジャズプレーヤーで実業家の野口さんが、吉祥寺駅前に地上二階地下一階のジャズ喫茶「ファンキー」を開店させたのは一九六六年のことだった。 今のように性能がいいステレオが普及していない時代。 吉祥寺に初めて誕生したジャズ喫茶は私語厳禁で、音を聞く姿勢を重視した。 このスタイルは若者の心をとらえ、全国に広がったジャズ喫茶ブームの火付け役とも言われた。 七五年には、映画「ウエストサイドストーリー」をヒントに、ライブハウス「サムタイム」を作った。 多くのミュージシャンに演奏の場を提供し、自らもアルトサックスを演奏した。 吉祥寺を名実ともに「ジャズの街」に変えた。 野口さんはジャズの分野だけに収まりきれず、自らがデザインを手がけた、おしゃれな居酒屋、ケーキ店、ジャズバーやレストランバーなど次々と吉祥寺に店を出し、アッという間に十六店のオーナーとなった。 野口さんとジャズ喫茶黄金時代を築き、吉祥寺のジャズ喫茶のオーナーでジャズ評論家の寺島靖国さんは、野ロさんを「おれはジャズに生きている。あんたはジャズで生きる」と批判したことがある。だが、野口さんは「ジャズの実業家で何が悪い」と開き直った。 野口さんの妻、満里子さん(48)は「店作りが趣味のような人だった」という。 寝るときでも枕元にメモ帳を置いて、アイデアが浮かんだら、夜中でも起きてデッサンを描いた。 ひとつ店を作り終えると、次は全く雰囲気の違う店を作る。 作っては内装をひんばんに変える。 まるで吉祥寺という街をキャンバスにして、納得行くまで油絵を描く画家のようだった。 知人から「なぜ次から次へと違う店を作ったり、改装したりするんだ」と 聞かれても、笑っていただけだったという。 野口さんが、吉祥寺にやってきたのは一九五九年。 銀座で喫茶店を経営していた父親が体調を崩し、「空気のいいところに住もう」と家族で引っ越してきた。 野口さんは当時、慶応義塾高二年。 都会育ちの青年は駅から見た街の風景を「ゴミゴミして田舎臭い町だ」と漏らした。 ところが、次々と出店していくうちに、「吉祥寺はいろいろな表情のある街。 自分は見る目がなかった」と愛着を持つようになったという。 自分の手で大きく変えられる可能性のある街。 そう感じたのかもしれない。 野口さんの事業拡大とともに、吉祥寺は高級住宅地として人気を集めるようになり、実は野口さんの店十六のうち、十五店が入り口を駅に向けている。 吉祥寺を楽しむためにやってくる若者たちのエネルギーを吸収したい。 そして活気ある店にしたい。 そういう願いが込められている。 満里子さんは最近、商店街の人たちや雑誌の編集者から「野口さんなくして今の吉祥寺の発展は考えられない」という話をよく聞く。 だけど、満里子さんはそうは思わない。 「本人は街づくりを意識していたわけではないんです。時代の二ーズをかぎ分け、経営に生かしたんです」。 実業家としての成功が、吉祥寺を変える力となった。 きょうも吉祥寺駅を降り、若者たちが野口さんの店にやってくる。 (小泉公平)
<読売新聞 2003/03/04 33面 駅の物語より引用>
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